LOGIN私が菜々ちゃんから相談を受けたのは翌日のことだった。
真剣な、けれどどこか後ろめたい様子を隠しもせずに菜々ちゃんが取り出したのは看護実習生の面接用の書類だ。
「……ごめん。美羽にこんなことを頼むのは正直いけないことだってわかってるの。でも、他に頼れる人もいなくて」
面接用書類の空欄に目をやる。
――志望理由。
菜々ちゃんは看護婦になりたいと真剣に思っているわけではない。将来、職業婦人になりたいというのが菜々ちゃんの目下の目標で、看護実習生はその将来の可能性を広げたり、検討するための第一歩なのだ。だからこそ、なにを書くべきか迷っているということだろう。正直に書けば落とされてしまうし、かと言って他によい理由など思いつかない。
菜々ちゃんは「本当にごめん」ともう一度頭を下げた。
夜、学校の課題を済ませ、先生からいただいた論文の翻訳に取り掛かろうとしたところで、私はふと菜々ちゃんとの会話を思い出した。 自分の体の中に、他人の心臓がある。誰かからもらった心臓で、私は生きている。 こんな大切なことを、なぜ今まで私は一度も考えなかったのだろう。 いや、考えたことがないわけではない。心臓移植について、まだ幼い頃とはいえ簡単な説明はたしかに受けたはずだし、誰かに与えてもらった命だと意識もある。 けれど、そのことについて深く突き詰めたことはなかった。 例えば、誰の心臓なのか。相手はどうなってしまったのか。誰が手術をしてくれたのか。 そうした詳細な事実を聞いたこともなければ、聞こうと思ったこともなかった。「お母さまたちなら、わかるかしら」 私が当時聞いてもわからなかったことでも、大人たちは理解していたはずだ。私が自分では判断できない年齢だったから、両親のほうが事細かに説明も受けただろう。決して簡単な手術ではなかっただろうし、そうした危険性の高い手術には両親の同意が必要だ。 昨日、翻訳した論文にも書いてあった。治療を受ける本人も、その家族も、大切な患者だと。 私は自室を出て階段を下りる。居間を覗くと、お父さまがなにやら小難しい顔で新聞を読み、その隣でお母さまが裁縫をしていた。「お父さま、お母さま」「おお、珍しいな。どうしたんだい?」「お茶でも飲む?」「お茶は……、うん、頂戴します」「まあ、座りなさい」 お父さまに促され、二人が座っていた長椅子の前、一人用の椅
私が菜々ちゃんから相談を受けたのは翌日のことだった。 真剣な、けれどどこか後ろめたい様子を隠しもせずに菜々ちゃんが取り出したのは看護実習生の面接用の書類だ。「……ごめん。美羽にこんなことを頼むのは正直いけないことだってわかってるの。でも、他に頼れる人もいなくて」 面接用書類の空欄に目をやる。 ――志望理由。 菜々ちゃんは看護婦になりたいと真剣に思っているわけではない。将来、職業婦人になりたいというのが菜々ちゃんの目下の目標で、看護実習生はその将来の可能性を広げたり、検討するための第一歩なのだ。だからこそ、なにを書くべきか迷っているということだろう。正直に書けば落とされてしまうし、かと言って他によい理由など思いつかない。 菜々ちゃんは「本当にごめん」ともう一度頭を下げた。 菜々ちゃんのこういう真摯で誠実な態度が好きだ。竹を割ったように真っ直ぐで、けれど情を感じられる。大好きな親友だ。「私、菜々ちゃんのために役に立てることがあるならなんでもするわ」 私は膝にのせていた弁当箱を長椅子に避けて、菜々ちゃんの手を握った。本気でそう思っていることが菜々ちゃんに伝わりますようにと、願いを込めて。 菜々ちゃんはそれでもどこか申し訳なさそうに唇を噛んでいる。「菜々ちゃんの素敵な顔が台無しよ」「……悪いことをしてる気分だわ」「もう。どうしてそんなことを言うの。菜々ちゃんは立派よ。ちゃんと将来のことを考えて選んだんでしょう? それに、私が実習に参加できないのは、私の体のせいだもの。菜々ちゃんはなにも悪くないわ」「それは、そうかもしれないけど&
看護実習生の募集が締め切られ、結納の日取りが決まり、私の生活はあっけなく元通りに戻った。 応募を辞退したと言えば、菜々ちゃんは残念そうにしながらも理由までは追求してこなかったし、先生もそれは同じだった。 でも、やれることはある。看護実習生にならなくとも、看護婦になる道はいくらでもあるし、もともと、そんな好機が舞い込んでくるとすら思っていなかったのだ。今まで通り、先生との勉強に戻るだけ。「……できたわ」 私が万年筆を置くと、先生が小説を閉じた。 今日は西洋医学について英語で書かれた論文を翻訳する課題が与えられている。一か月かけて翻訳しようと先生が特別に持ってきてくださったものだ。蘭語との違いにてこずったが、五章のうち最初の一章はなんとか読み解けたように思う。 看護に関わる家族の心理状態をどのように保つか。一章ではまだそのさわりが書かれているだけだが、とても勉強になる。治療を受ける本人だけでなく、本人の家族にも理解や寄り添いが必要なのだという学びは、まさに自分の過去、幼少期を支えてくれた両親への感謝に直結した。「確認してくださる?」 先生は私の翻訳を受け取ると、素早く目を滑らせ、いくつかの翻訳の意味合いや言い回しに間違いがあることを見つけたようだ。赤を入れ、私のほうへ戻した。先生の綺麗な文字に惚れ惚れしながら解説を聞く。「この単語は専門用語なので、辞書にはなかったかもしれませんね。日本語では、衛生と言います。直前のメンタルと繋げて精神衛生。体だけではなく、心を侵す病もあります。心を健やかに保つこともまた重要だと説いているんです」「へえ……」 私がそれをもとに翻訳を直せば、先生は「完璧です」と微笑んだ。先日の外出も、見舞いの日の夢の話も、忘れたみたい
「みぃ、悪いけどその話は無しだ」 看護実習生募集用紙を丁寧に畳み、瑞希くんは背広の内側へしまった。募集用紙を私へ返すつもりは一切ないようだった。 本人は抑えているつもりだろうが、明らかにいつもより機嫌が悪い。それもそのはず。私が寝込んで心配をかけたところに、瑞希くんにとって看護実習生の話は喜べない話だっただろうから。久しぶりに会えたのに、とも思っていることだろう。 瑞希くんは私から視線を外しただけで、流れていく景色を見るでもなく目を閉じた。仕事も忙しく、疲れもあるのだろう。 ――だったら、無理に送迎なんかしなくてもいいのに。 意地の悪い考えが浮かんで、私は袴を握る。 瑞希くんは私を愛してくれているのだ。親が決めた政略結婚であるにも関わらず、私のことを想ってくださっている。 その気持ちに応えられていないのは、私のほうだ。 瑞希くんは深呼吸して、ゆっくりと口を開いた。だが、すぐには話し始めない。言葉を選んでいるのがわかる。私をできるかぎり傷つけまいとしてくださっている。「……みぃが」 瑞希くんは言って、もう一度ためらうように口を閉じる。閉じていた瞼が開かれ、沈丁花色の綺麗な瞳が私を捉えた。「みぃが、看護婦になりたいと思う気持ちは、俺も理解してる。どうして、そう思うのかも。でも……、世の中、どうにもならないこともあるだろう?」 瑞希くんはそっと私の肩に手を回し、そのまま私を引き寄せた。瑞希くんの肩に頭を預ける形になる。彼は、私の髪を丁寧に優しく撫でた。「決して自分の体が強くないのは、わかるよな」「……
結局、私の体調が回復したのは三日後だった。 数日ぶりの女学校は相変わらず姦しく、その華やかな喧騒にいくらか心も晴れる。体操の授業は残念ながら参加できなかったが、それ以外の座学には無事に出席できた。 親友を待つ間、木陰に置かれた長椅子から陽の射す運動場を見つめる。水たまりと、先ほどまで学友が体操を行っていた跡がいくつか残っている。 夏へと向かう空は青く澄んでいて、気化熱で冷やされた空気を運ぶ風が気持ちよかった。「美羽!」 菜々ちゃんの溌剌とした声が聞こえる。「お待たせ」 袴姿で駆けてきた菜々ちゃんはさながら王子さまのごとく、軽やかに裾を翻して長椅子を飛び越える。そのまま見事、椅子へ腰かけた。「菜々ちゃんが相変わらず元気そうで良かったわ」「美羽は? もう大丈夫なの?」「おかげさまでね」 私たちは互いに持参したお弁当を膝の上に広げ、久しぶりの逢瀬を楽しむ。会っていない間におきた出来事を昼食のおかずにするように。 先に切り出したのは菜々ちゃんだ。ずっとこの話がしたかったのだとばかりに菜々ちゃんは私のほうへ体を寄せてニマニマと口元を歪めている。「それで? 先生とお出かけしたんでしょう? どうだった?」「それで、風邪を引いたのよ」「もう! そういうんじゃなくて! 辛いことばっかりってこともないでしょ?」「それは……」 思い出すと、菜々ちゃんにつられるように頬が緩んでしまう。当然、彼女がその変化を見逃してくれるはずもない。菜々
昨日、先生との外出で熱に浮かされているような気分になっていたが、どうやら気のせいではなかったらしい。 小雨の降る朝、私は熱を出した。 心臓移植を受けてから十年。退院して五年。これでも元気になったほうだが、虚弱な体質は変わらない。 無茶をしたつもりはなかったが、慣れない人ごみに疲れたのかもしれない。「これじゃ、本も読めないわね」 喉が引きつって声が掠れた。寝台の脇に置かれた袖机へ手を伸ばす。水差しから水をグラスに注いで飲むと少しばかり気が晴れた。とはいえ、倦怠感のせいか体は重く、この程度の動作ですら胸が痛むほど鼓動を速める。 窓を叩く雨音を聞く以外にできることもなく、私は目を閉じる。昨夜はあまりうまく眠れなかった。発熱で体力も奪われているらしい。呼吸が落ち着くと、簡単に睡魔が襲ってくる。 ――私は、夢を見た。 私は古い家の縁側に青年と腰かけている。庭には満開の白い梔子。私たちは、それを眺めるのが好きだった。 風に吹かれてふわふわと揺れる花弁を見て、青年が笑った気配がする。「見て。雪みたいだよ」「雪?」「白くて、綺麗で、冷たい氷の雨なんだって。いつか一緒に見てみたいね」「うん!」 風が止むと私は花を愛でることに飽きて、お茶請けのあんこ玉を頬張った。 夢中になっていると、隣に座る少年が「僕のぶんも食べていいよ」と私にお菓子を差し出してくれる。 彼の顔は逆光のせいでよく見えない。が、私はその顔をよく知っていると思う。私の頭を撫でる優しい手つきも。 梔子の香りと







